美しくない。
岩の隙間にぽつぽつと咲いている白い花の群集を見つめ、ツンドラマンはひとり呟いた。こんなの美しくないよ。聞き手などいないのに、まるで相手に向かって語りかけるように、彼はもう一度それを口に言う。サーッと吹いてくる冷え乾いた風の音だけが応えるようで、彼はそのことにすら嫌気が差した。
ツンドラマンは、その大きい身体をちぢこませ、岩の隙間の花をよく見つめる。
ちっこい花だ。そのつぼみは手先で触れるだけで直に摘まれてしまいそうで、ひどく脆そうに映る。その上花は、地味なまであった。他より目立つ色味ところか、目にとまるような特徴一つ持たないで、そのくせ凛としてただ、咲いているだけ。地を這い縋ってでもなお生けようとする様が惨めにすら思えて仕方がない。彼は手を伸ばし、花びらの先に触れてみた。その仕草に花びらはトッ、と放たれ、風に乗り、舞い上がってゆく。
『ねえあなた知ってる?極地で咲く花はどれも美しいのよ』
研究所に居た頃、カリンカのお嬢さんはそう言っていた。何の話だか分からないという顔をしたら、彼女は笑ってみせて、『だってその子たちはこんなに険しいところでも、屈しないで、頑張って、根を張って育つじゃない。だから、美しいに決まっているわ』
だとか。確かにそんなことを言っていたんだ。
「だけど……」
触れるだけで今にでも砕け散りそうで、ちっぽけな、か弱い花。結局こういう結末なのだ。せっかく頑張って根を張っても儚く散るだけ。精一杯咲きても誰一人振り向いてはくれない。報いのない努力なんて、美しさなんて、そこにいったい何の意味が見出せるのだろうか。ツンドラマンは考えた。アホみたいだ。心底淋しさを覚えた彼はすっとぼけた顔でずさむも、行き先の無い言葉は風に霞んでしまうだけであった。ツンドラマンは足を運びだす。風の妨げになる草木など生えない岩の崖に、白き闇がとばりを降ろした。
* * *
「君のところはとても綺麗だな」
夜が沈む。極地の風とは違った、暑く湿った夏日の空気が木々と草の匂いを運んできた。視野こそ狭かったものの空に浮かぶ満月が道導となり、ふたりのゆく道を照らしている。ツンドラマンは耳元に響く鈴虫の声を音楽代わりに、キャンプ場の裏道を歩みながら隣に付き添う相手に語りかけた。
「風もさほど冷たくないし、それに、色んな声がして僕は好きだ。特に……」
そう言いながらツンドラマンはよく整備された道の端の、野の花を見つめる。名前の知らない多彩な花の群集がそこら中に咲き満ちていた。
「花がこんなにも咲いているところとかね」
「そうか」
そうとも、と、ツンドラマンは浮かれ気味に花の近くに寄り添ってはそこへ座り込んだ。手先で青色の花のつぼみに少し触れてみると、花は静かに揺れる。目の前に広がるその花畑からはほんのり青臭い香りがした。
「君の働いている職場だって素敵だと思っているぞ、俺は」
「別に極地は嫌だとかの話じゃないけどね」
「いや、今のはそんなつもりではなかったのだが……」
「冗談だって、じょうだん」
慌てて解明するトーチマンに彼はニンマリとした笑みを浮かべる。
「でもやっぱり、こんなものを見せられたら、やきもち妬いちゃうなぁ」
「……」
「だからってここの花を摘んだりはしないから。心配しないで」
「……」
「そんなことより、お願いしたいのは別にあるからね」
「?」
彼の疑問を浮かべた眼差しにツンドラマンはまたしも笑った。なんでも聞いてやると約束してくれれば何も、言えないこともないのだけれど。ニヤニヤわざと焦らしてくるツンドラマンにトーチマンはいたたまれなくなり、さっそく口を開いた。
「……俺のできる範囲内なら、なんでも聞いてやるぞ」
「ふーん。本当になんでも、聞き入れてくれるのね?」
その返しに多少緊張したのやら、トーチマンの炎が小さく揺らいだ。ツンドラマンはニヤニヤとしながら笑いをこらえる。おふざけ半分の冗談をそのままの意味で受け取ってしまう、こういう純粋なところがたまらなく愛おしかった。また、その顔をいつまでも眺めていたいという意地悪な気持ちも湧いてきた。ツンドラマンはいたずらっ子のような目つきで笑いながら、トーチマンに一歩だけ近づいた。すると、トーチマンは少し動揺したけど後ろへは退かない。この些細な仕草から、ツンドラマンは自分自身に向けられている彼からの信頼が伺えた。
ちょっとでも手を伸ばしたら十分届く距離まで近寄って来る彼の、その意図を図れない表情に、トーチマンの炎はさらに揺らいだ。ツンドラマンは構わず、やけどなど気にも留めないような見事な度胸っぷりで両手をトーチマンに向け差し伸べる。そして、両手の手のひらに氷の結晶を生み出しては、彼に渡してみせた。
「―――公演を見に来て欲しい」
「公演?」
「うん。もうすぐオーロラなんだ。オーロラのできる時期はとても変則的だから、観測所からの告知が遅くなって、それで練習も色々大変だったけれど」
「そういえばオーロラということは……」
「そう、2年も待ちに待った舞台だよ」
彼の言葉を聞いたトーチマンは、ツンドラマンにもらった氷の結晶をスキャンした。公演は一週間後、ツンドラマンのステージで開催されるものだった。世の中で一番美しいデビュー舞台に立ちたい、と、いつかツンドラマンが言っていたことをトーチマンは思い出した。そして一週間後本当に、ツンドラマンの待ち望んでいたその瞬間が訪れるようだった。
「ブロックやヒューズたち、それにコサック研究所の兄弟らとロックマンを含めたみんなを招いたからね」
「……」
「大事な公演だから、あと一週間の間はこうやってまた会えないだろうし」
「……」
「だから、ね。見に来ておくれよ」
「……」
だがしかし、トーチマンは答えることができなかった。
ツンドラマンは急かすよりじっと彼のことを伺いながら待つことにした。ついさっきまで両肩で揺らいでいた炎も鎮まり返っていた。彼が何か悩んでいるという証だった。静けさが漂ってしばらくした後、開かれた口からこぼれた回答は多少期待外れなものだった。
「……公演を観賞したことがないんだ。アイスダンスは、よくわからない」
「それがどうしたって言うの?これを機に一度観てみるといいだけの話さ」
「しかし……」
そして、トーチマンが目をそらした。あ。これは何か隠している。トーチマンはたまに嘘をつくことがあって、そのたびにこうやって目をそらす癖がある。しかし何故?ここまでして、言い訳をするまでに来られない訳が、彼にはあるのだろうか?ツンドラマンとしては到底わからない疑問が浮かぶ。
それでもツンドラマンは彼を追い詰めるより、言葉を飲み込んだ。もちろん戸惑う理由は気になるし疑念をも抱いた。けど、いちいち訊きたくはない。おそらくトーチマンはこっちがもっと攻めればそれに順応し、おとなしく公演を観に来てくれるだろう。でもそんな形でならツンドラマンの方から願い下げだった。低姿勢をしてまで彼に来てほしくもなければ、自分の感情を押し付けたくもなかったから。
「条件が揃わなかったら仕方ない。絶対来てってことでもないし、来れそうだったら来てよね。君の席、指定席なんだから」
「……考えてみるよ」
「…そう」
それにて会話を終えたツンドラマンは、散歩を再開することにした。そのあとは、少しあまり気の重い時間が流れた。漂う空気も、重く感じた。
* * *
ツンドラマンは控室の椅子に座ったまま、通信機から目が離せない。通信機はさっきから同じ画面を映していた。もう10分後に控えている公演にむけて昨晩送られてきた、短文の励ましのメッセージを。
トーチマンから送られてきた返事とはこれきりだった。来られるともいけないとも何も、それ以降何も、言葉は付け加えられなかった。ツンドラマンは認めなかったけれど、あのメッセージを受信したとき彼は感情的にかなり動揺していた。通信機のアラームの着信音に期待を膨らませていた分、逆にやる気を削られる結果を招いてしまったのだ。頭脳回路と感情回路が互い違いだす。きっとなにか言えない事情があるのだろうという思いやりの気持ちと、断言できずの彼に対する失望の気持ちが。
「ツンドラさん、そろそろ待機してください!まもなく始まります」
「……うん」
しかし、公演をないがしろにするわけにはいかない。ツンドラは立ち上がった。今は些細な感情などに座右されるべき時ではないのだ。彼にとってなにより大事なこと、それは、公演を完璧に終わらせること。オーロラがひときわ玲瓏と輝くとき、一番感動的で美しい舞台を観客に届けることこそが彼の夢見ていた瞬間なのだから。その瞬間を待ち望んでいたがためにここまで来られたのだから。用意していたコスチュームを纏った彼は迷わず前に進んで行った。
光の届かない客席と、そして、リンクの上。彼は暗闇の中で背を向けたままそびえ立つ。舞台の空気は重かったけど、不安なんて覚えなかった。練習は厳しかった。でも、それに負けずと、自信が持てるくらいに最善を尽くしてきたつもりだから。彼は静かに、心の中で数字を数えた。少しの間を挟んだ静寂の後、音楽がかかる。
スポットライトがツンドラマンの頭上を照らす中、幕が上がった。
氷上を駆るブレードに蹴られた氷の欠片がオーロラの光にひかめく。ツンドラマンは流れるようなステップを踏みながら曲に合わせ、旋律と踊った。そうやって彼は、何度も繰り返してきた輪舞を舞いながら、氷上を駆け、舞台を輝かせた。オーロラの光が低くかかったところでは一回転、二回転と宙に浮かぶ。舞台と空を繋ぐような彼の身軽い体裁きは、人の視線を奪わせるに十分だった。そうして跳ねたあと地に足がつく度に、足元には夜空のそれとはまた違った、美しい月がさがかかる。完璧なまでに、彼の独舞台だった。
彼の創り上げた多彩な色付きに会場中の視線が集まるなか、一曲目が終わった。暗転で幕が下りる前に、ツンドラマンは軽く黙礼をし、視線を観客席の方へ移す。開演前も何度も確認していた、舞台が一番よく見えるすぐそこへ。
席は、空いていた。
* * *
観客らのスタンディングオベーションを引き出した舞台が幕を閉じると、ツンドラマンは観に来てくれた友人やスタッフさんたちすら残っていない舞台を後にし、控室に戻っていった。床に置かれた数々の差し入れをテーブルの上に並べて椅子に座った彼は、少しの間目を閉じる。
「来なくたっていいと言ったのは僕だけどね」
それでも、最終公演だけは君に観て欲しかった。
自分のパフォーマンスに落ち度はなかった。開演前はトレース跡で埋め尽くされたリンクを何度も製氷し直さざるを得なかったほどの練習量だったのだ。そして結果、何度も頭の中で描いていきた以上のモノを観客から受け取られたものだから。
だがどうしても、これらを一番見せつけたかった相手に届けられなかったのが心残りだった。来なくても良いと言ったのは自分だから愚痴を言っちゃダメだって、自分で何度も心に決めたはずなのに、むしゃくしゃする気持ちが取りついて離れない。悔しさと不満をしがんでいたら失望が恨みになりそうだった。だから、頭を振って大きく深呼吸をした。もういい。全部終わったことだから。訳を訊けたとして今更、何も変わりゃしないし。彼は気に病むのをやめて、テーブルに手を伸ばして自分あての差し入れを見てみることにした。
公演中のワンシーンをホログラムにした投影機に、オーロラ色の液体とステージを形にした模型の入っているスノーボール、氷の中に刻み込まれた雷の柱のグッズや、ツンドラマンのゴム人形などなど。様々なプレゼントと、公演の出来を称えるメッセージカードや手紙たちを一つ一つ読み倒していくうちに、手紙もメッセージカードも見当たらないブーケが目に留まった。
青いバラでぎっしりな、とても美しい花束だった。
極地ではなかなかみられない生花の花束。青い色味を帯びているバラは一瞬にして視線を奪えるほどきれいに咲いていた。手先で花のつぼみを撫でたら、まるでベルベットのような感触が伝わってきた。
誰からだろう?初めて浮かび上がったのはカリンカのお嬢さんや兄弟たちの顔だった。けれど、もう彼らとは終演後に会っていて、別の差し入れを受け取っていた。もう一度花束を確認したけど、それらしきカードは付いてなかった。それをいぶかしく思ってブーケをあちこち探っていた彼は、ふと何かを見つけては、さすっていた手の動きを止めた。
青いバラの裏が、少し焦げていたのだ。
ここではなかなか手に入らない生花。そして、丁寧にラッピングされているのにこんな痛み方、つまり花は元からこうだったのじゃなくて―――
「……」
ツンドラマンは口をつぐんだままつぼみをさすった。もし焦げた花びらが落ちないか、さぞ心配げな仕草で。手先から感じ取れるか弱い存在感に彼は、しばらく考え込んだ。それは遠い昔、ここ極地で感じていたのと似ていて、また相反している感覚だった。極地で咲く花は酷く脆い。それは、このブーケの花だって同じことだ。誰も目もくれないほどみっともないつぼみたち、咲き開くまでわかってもらえない努力の数々…
『ねえあなた知ってる?極地で咲く花はどれも美しいのよ』
そして彼はようやく、カリンカのお嬢さんが言っていた美しさとは何なのかに気付く。みっともなくてもいい。皆の目に留まらなくたっていいのだ。そうして咲いてみせたことを分かってもらえるたった一つの視線と、たった一つの差し出される手さえあれば。
彼は黙ったままブーケを抱え込んだ。やがて、席から立ち上がった彼は何かを確認したいよう、足を運びだす。
空にはオーロラが燦然と輝いていた。
* * *
翌日の夜明け前、ツンドラマンの会場を片付けていた掃除ロボットは変な痕跡を見つけた。リンクの舞台に繋がっているある通路の片隅だった。床の状態がおかしかったのだ。床は見たことない形で歪んでいて、何かで突かれたり、人々の足踏みでひびが入って崩れたりしたのではないような破損の仕方だった。よく観察する必要性を感じた掃除ロボットは、床に触れてみた。確かに氷の質が変わっていた。あるで、一度溶けた後また凍ったような形をしている。これほどの熱量だったのなら、被害がここだけにとどまっているのがおかしい。掃除ロボットは疑問を浮かべて、もう一度周りを見渡した。
何気なく視線を移すと、そこを支える固い氷の柱の一面が溶けた跡が見えた。氷のクリスタルで出来た透明のガラス窓も、溶けた後また凍ったみたいに、内側が若干歪んだように見えていた。こうして周りを見渡していた掃除ロボットはひとつ、不審なことに気が付く。そういえばここのガラス窓を越して会場の中を覗くと、舞台の真ん中が見える。普段から会場に行き慣れていなかったら気づけない特等席だったのだ。
「……?」
掃除ロボットはメモリーを探り、関係者らの詳細を1人ずつ確認していった。それで設備を壊せるほど強い能力を持つ炎タイプのスタッフはいないことがわかったけど、自分の思考回路ではここをここまでにした犯人を推理しきれなかった。その代わり掃除ロボットは、片隅の写真を撮り、ツンドラマンに転送した。この原因のわからない火事の詳細を、彼のボスになら分かるはずだった。
Torchman x Tundraman